周防大島 嵩山 [周防大島]
嵩山(だけさん)
動画「大島大橋」
動画「飯の山と大島大橋」
動画「嵩山」
嵩山619m。
日前(ひくま)から帯石観音(弘仁2年・西暦811年創建)まで車で行った。
大石の「南無阿弥陀仏」の文字は弘法大師が書いたといわれている。
江戸末期幕府が長州攻撃を仕掛けた四境戦争の地でもある。
さらに車で岩屋権現の鳥居が建っている所まで行き、そこから歩いて頂上へ登った。
動画「大島大橋」
動画「飯の山と大島大橋」
動画「嵩山」
嵩山619m。
日前(ひくま)から帯石観音(弘仁2年・西暦811年創建)まで車で行った。
大石の「南無阿弥陀仏」の文字は弘法大師が書いたといわれている。
江戸末期幕府が長州攻撃を仕掛けた四境戦争の地でもある。
さらに車で岩屋権現の鳥居が建っている所まで行き、そこから歩いて頂上へ登った。
周防大島 飯の山 [周防大島]
飯の山
動画「大島大橋」
動画「飯の山と大島大橋」
飯の山のふもとには、周防大島で最も古い社の大多満根神社がある。
祭神は古事記・国生みの神話に出てくる「大多麻流別命」。
境内には、瀬戸の渦潮に身を投じた般若姫の供養塔がある。
263m飯の山の山頂には展望台がある。
展望台に昇れば、大島瀬戸の雄大な景色に圧倒される。
動画「大島大橋」
動画「飯の山と大島大橋」
飯の山のふもとには、周防大島で最も古い社の大多満根神社がある。
祭神は古事記・国生みの神話に出てくる「大多麻流別命」。
境内には、瀬戸の渦潮に身を投じた般若姫の供養塔がある。
263m飯の山の山頂には展望台がある。
展望台に昇れば、大島瀬戸の雄大な景色に圧倒される。
2013年 和佐八幡宮秋祭り [周防大島]
2013年和佐八幡宮秋祭り
10月23日、和佐八幡宮で秋祭りが行われた。
2時から本殿内で神事、境内で御輿くぐりの後、本殿内で神事があった。
降雨のため、浜の御旅所への御輿練りは行われなかった。
動画「周防大島 和佐祭 神事」
動画「周防大島 和佐」
10月23日、和佐八幡宮で秋祭りが行われた。
2時から本殿内で神事、境内で御輿くぐりの後、本殿内で神事があった。
降雨のため、浜の御旅所への御輿練りは行われなかった。
動画「周防大島 和佐祭 神事」
動画「周防大島 和佐」
和佐自治会ボランティア活動 [周防大島]
和佐自治会ボランティア活動
2013年9月29日朝8時から、バス道路(旧和佐保育園から南側)の溝浚いの作業を実施した。
落ち葉や泥が溝に溜まって水が流れにくくなっていた箇所を男手を中心に行った。
スコップで土を掘って土嚢に入れて、土嚢を道路脇に積み上げていく作業。
缶コーヒータイムを挟んで作業が終わったのが9時45分。
ほとんどの人が60歳以上だったがみんな踏ん張って、溝は元の状態に戻った。
動画「周防大島 和佐」
動画「和佐自治会ボランティア活動」
2013年9月29日朝8時から、バス道路(旧和佐保育園から南側)の溝浚いの作業を実施した。
落ち葉や泥が溝に溜まって水が流れにくくなっていた箇所を男手を中心に行った。
スコップで土を掘って土嚢に入れて、土嚢を道路脇に積み上げていく作業。
缶コーヒータイムを挟んで作業が終わったのが9時45分。
ほとんどの人が60歳以上だったがみんな踏ん張って、溝は元の状態に戻った。
動画「周防大島 和佐」
動画「和佐自治会ボランティア活動」
周防大島のシロバナタンポポ [周防大島]
シロバナタンポポ(白花蒲公英)
山道を登って日当たりの良い場所に出たところで見つけた。
西日本に多いタンポポで、花茎は高さ10~40センチになり、先に径3.5~4.5センチの白色の頭花をつける(日本の野草)。
山道を登って日当たりの良い場所に出たところで見つけた。
西日本に多いタンポポで、花茎は高さ10~40センチになり、先に径3.5~4.5センチの白色の頭花をつける(日本の野草)。
周防大島 和佐八幡宮秋祭り [周防大島]
2012年和佐八幡宮秋祭り
10月23日、秋祭りが行われた。
2時からの神社での神事の後、神輿が8人の男の担ぎ手によって海岸の御旅所まで運ばれた。
集落の人々が見守る中、神輿振りをし、人々は自身の健康と幸せを願って御輿くぐりをした。
動画「周防大島 和佐祭 神事」
動画「周防大島 和佐」
10月23日、秋祭りが行われた。
2時からの神社での神事の後、神輿が8人の男の担ぎ手によって海岸の御旅所まで運ばれた。
集落の人々が見守る中、神輿振りをし、人々は自身の健康と幸せを願って御輿くぐりをした。
動画「周防大島 和佐祭 神事」
動画「周防大島 和佐」
周防大島 眷龍寺 [周防大島]
眷龍寺
国鉄バス下田駅から白木山登山道路を上ること約1キロ、弘法市で有名な神宮寺の南丘、松林を背景として眺望絶佳の地にある寺院が眷龍寺である。
眷龍寺の始まりは約七〇〇年前の文永年間であり、宗旨は臨済宗として勅溢普済大聖禅師が創建されたと伝えられている。
今に至るまでこの古位牌が残っておるが、その間寺院は荒廃し、いろいろの重要な記録や什宝類も紛失したので代々の住僧の世牌や年数等は充分に判らない。
それから後元和元年に曹洞宗の融山寛南和尚が再建して、永平寺の末寺として伝えられてきたのであるが、はっきりした記録がないので寛文年間の本未御改めのとき龍文寺の末寺とされ、そのとき龍文寺第五世為宗忠心和尚を迎えて開山と定められたが、文亀2年に同和尚は亡くなられた。
二世寛甫、三世喜庵長栄、四世林獄慶春、五世麟昌春麒、六世定宝頼禅と住僧は元禄12年4月まで相続したが、その頃寺院が老破したので右門虎白和尚が寛永5年に再興し、恩師である大振道潮禅師を中興開山に迎えて自分は中興二世となり、それから後歴代に及んでおる。
なお当寺のはじめは森野の長浜にあったともいわれ、また西方の奥地にあったとも伝えられているが、この点ははっきりしない。元和年間に現在の地に転じたことは間違いないようである。
現在の寺院の建物は本堂七間四面で大正2年に起工し、同3年12月上棟十四世興元建禅師の再建で、内柱は欅材の丸柱を用い、荘厳を極め、工費は当時の五千余円を要したものである。
檀家は一〇六戸で住職は船越出身の興元建道氏であったが昭和3年に死去されたので、現在は法心寺住職矢野泰邦氏が兼掌されている。
(昭和35年9月1日東和広報より)
(昭和35年9月1日東和広報より)
民俗学者・宮本常一の墓 [周防大島]
宮本常一の墓
宮本常一は自分の足で日本中を歩いて、彼が歩いた跡を赤ペンでたどると地図が真っ赤に塗られると言われるほど、日本全国を歩き、調査し、指導し、忘れられた日本を掘り起こした。
後年大学の先生になり、学生に出身地を聞いて、地元の人しか知らないようなことまで答えたという。彼にかかれば日本中知らないところはないといわれた。
宮本常一は1907年に山口県周防大島で生まれた。大阪に出て、逓信講習所から郵便局に勤務しながら、天王寺師範二部で学んだ。卒業後、小学校教師になった。
結核を患って周防大島に帰り、療養中柳田国男の民俗学の雑誌に投稿、認められた。教師に復職し「口承文学」を創刊し、ガリ切り、印刷、配布を一人でこなした。
結婚し長男が生まれた後、教師を辞め、大阪に妻子を残して、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアムに入った。1939年。ここから宮本常一の歩く人生が始まる。その中で、離島振興法の制定に奔走し、離島の発展のために力を注いだ。
彼は民具を調査し、捨てられかけていた農具、漁具などの民具を各地で保存した。佐渡が島の八珍柿の栽培を指導、鬼太鼓座に協力、周防猿回しの会復活に協力した。
1980年、周防大島に郷土大学をつくり、その活動は、彼が亡くなった後も彼の意志を引き継いで続けられている。
動画「防長バスが走る旧東和町」
宮本常一は自分の足で日本中を歩いて、彼が歩いた跡を赤ペンでたどると地図が真っ赤に塗られると言われるほど、日本全国を歩き、調査し、指導し、忘れられた日本を掘り起こした。
後年大学の先生になり、学生に出身地を聞いて、地元の人しか知らないようなことまで答えたという。彼にかかれば日本中知らないところはないといわれた。
宮本常一は1907年に山口県周防大島で生まれた。大阪に出て、逓信講習所から郵便局に勤務しながら、天王寺師範二部で学んだ。卒業後、小学校教師になった。
結核を患って周防大島に帰り、療養中柳田国男の民俗学の雑誌に投稿、認められた。教師に復職し「口承文学」を創刊し、ガリ切り、印刷、配布を一人でこなした。
結婚し長男が生まれた後、教師を辞め、大阪に妻子を残して、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアムに入った。1939年。ここから宮本常一の歩く人生が始まる。その中で、離島振興法の制定に奔走し、離島の発展のために力を注いだ。
彼は民具を調査し、捨てられかけていた農具、漁具などの民具を各地で保存した。佐渡が島の八珍柿の栽培を指導、鬼太鼓座に協力、周防猿回しの会復活に協力した。
1980年、周防大島に郷土大学をつくり、その活動は、彼が亡くなった後も彼の意志を引き継いで続けられている。
動画「防長バスが走る旧東和町」
周防大島 オカトラノオ [周防大島]
オカトラノオ(岡虎の尾)
去年は同じ場所で咲いていないかと探したが見つからなかった。
6月14日、たまたま通りかかったら虎の尻尾のような花が咲いていた。
名前は丘に生えるトラノオの意味(「日本の野草」)。
去年は同じ場所で咲いていないかと探したが見つからなかった。
6月14日、たまたま通りかかったら虎の尻尾のような花が咲いていた。
名前は丘に生えるトラノオの意味(「日本の野草」)。